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P.T.A―Part Time Art ふつうの人が発信するアートカルチャーマガジン―

なぜ戦争中に芸術が必要か。

「こんにちは〜きょうもいい天気ですね〜!」
などというあいさつの代わりに、
「こんにちは〜きょうもひどい世界ですね〜!」
などといってみたくなるほど毎日毎日信じられない事件や不幸な出来事がある昨今、みなさまいかお過ごし、もといサバイブされてますでしょうか。

よくいわれているように、私たちをとりまくあらゆる環境の急速な変化で、これまでの秩序や共通の価値観というものは音を立てて崩れています。時代や個人の生き方は、何を目指すべきか指針を失って迷い、相反するイデオロギーによって人々は分断されているように見えます。

このようなときに失われているものは、将来の展望であり、それを支えるのは想像力です。

例えばなぜ人は人を殺したり傷つけてしまうのか。
それは自分の行動を顧みて、もしそのような行動をとったらどうなるかという想像力が欠如しているからでしょう。もちろんそんなことだれでもわかる、と思うかもしれませんが、キレて一時の衝動で我を失ってしまったり、心の働きが弱ってしまったり、頭でわかっていても実感としてわかっていなかったりするのではないでしょうか。
たとえば、原爆投下のゴーサインをくだした人物が、その行動によって、広島長崎の罪もない子供が死にあるいは瀕死になり、街を焼かれ、家族を奪われ、一生後遺症に苦しみ続けるなどという想像が働いたなら、それを大義や命令などで覆い隠してそのボタンを押すことをできたでしょうか。

殺人など極端な例でなくとも、他人の気持ちを想像してやれず気持ちがすれ違うことなどだれでもあり得ることで、そのように自分の範疇を超えた部分に対して想像をめぐらす気持ちの余裕が、現代においては失われがちだと感じます。

我々は、自分や日々の暮らしの安定を保つことに熱心のあまり、他人の評価や流行、目先の利益に目を奪われ、本来的な理想や善悪の判断について見て見ぬ振りしがちです。状況の苦しさから、そういった行動をとらざるを得ないという人もいるのでしょう。

それらの矛盾は、大きな国際問題から、個人の生活まで、さまざまなところに影を落としているように感じます。

このような中、我々に失われつつある想像力を与えてくれるのが芸術だと思います。

芸術とは、既存の常識やルール、価値観にとらわれることなく、真実とはなにか、人はどう生きるべきか問い続ける営みです。
もちろん真実とは、ひとつの目に見える正解などではなく、そもそもあるのかもわからない未知のものです。
そしてもちろんそれを行うのは、芸術家だけでなく、文学者でも、哲学者でも、法律家でも、ジャーナリストでも、いろいろな立場であり得ます。
しかし芸術家はことに、理論や超えた感覚を用いて、時代の雰囲気や空気を感じ取り、世界や人間のありようを表現します。
芸術は先述のように既存の様式を凌駕するものであるがゆえに、前例などなく、人からはなにをやっているのか、なんのためにやっているのか、まったく理解されないものであることもしばしばです。
しかし、日々の生活のなかで、そういった問いかけを意識的、また無意識的に怠っている私たちにとって、芸術家は、そのような態度を反省させ、新しいものの見方や違う視点を与えてくれる存在だと思います。
そこに私は、袋小路にはまったこの世界の現状を突破する可能性を見るのです。

芸術の現状はというと、人を育てるという、国家のもっとも根幹にある教育現場において、芸術はもちろん文系科目ですら「成果がみえにくい」という理由で削減されています。

各地でもてはやされる「文化」や「芸術」は、真にそれらがなんであるか問われることなく、たんなる趣味のレジャーやお飾り、観光の目玉などとして、わかりやすく消費される記号やブランドにすり替えられています。


戦時など危機に瀕したとき、
「芸術など役に立たない、そんな悠長なものをやっている場合ではない」
という圧力が起きるでしょう。

しかし、そういうときだからこそ、私たちには芸術が必要だと思うのです。
もちろん、そのときになってからでは遅く、その前に、悲劇を防ぐ行動が求められています。

だから今こそ、“炭鉱のカナリヤ”の声に耳を澄ますべきではないでしょうか。







# by parttimeart | 2015-07-04 23:11 | コラム

すき家の露出女子高生からみる女性の生きる道と幸せと落とし穴

牛丼チェーン店の「すき屋」でバイトしていた女子高生が、店内でわいせつ写真を自ら撮ってツイッターにあげていたのが発覚し、社内で処分されたそうです。

ネットでは、「ツイッターで目立とうとするバカッター」とか「バイトテロ」など、以前問題化した、飲食店やコンビニなどのバイトが店内で悪ふざけをした写真をSNSに投稿して炎上したケースと同じような反応が見受けられました

しかしわたしは、非常にこの女の子が心配です。というのも、この場合は単なる露出趣味や悪ふざけというより、自らわいせつな写真を上げてまで注目されたい、承認されたいと渇望する心の問題を感じるからです。

この子だけでなく、SNSにはそういった画像を自ら上げている人が多く、中には未成年と思われるものもあります。携帯で簡単に写真が撮れるので感覚が麻痺して、不特定多数に拡散され永久に残る危険性を認識しないまま軽い気持ちでやったことかもしれません。しかし、リベンジポルノや児童ポルノが問題になっているように、裸の写真をネットに流すことのリスクは計り知れないものがあり、プライバシーや問題になったあとの本人の精神的なダメージなど、将来的な影響が懸念されます。

SNSをするだれもが、「いいね!」とかファボり、リツイートされたときの喜びを知っているでしょう。そんな反応がほしいのは人として当たり前。しかし一般的な人々が普通の生活を綴っていても、バズることはなかなかないでしょう、これも当たり前です。それで多くの人々はリア充に見せたり、女子力をアピールしたり、モテ自慢をしたり、いきすぎた人は間違ったことをしてしまうんですね。

それはすべて、自分の存在価値が不安だからなのではないかと思います。

もちろん自分をよく見せようとするのは悪いことではないし、SNSのいいねやリツイートなどはコミュニケーションツールとして有益ですが、それらの表面的な反応を稼ぐために自分を消耗するのはよいと思えません。

裸体の写真を公開すれば、無料のポルノなのだから注目されるのは当たり前です。褒めてもらえたり、話しかけてもらえたりするでしょう。しかしその反応は、単なる消費される対象としてのものであって、当然ながら、自分が認められたことや、他人とコミュニケーションをとったり、つながったりすることとは全く違います。インスタントな接触を求めるあまり、本来貴重な価値を持つ、プライベートな自らを晒してしまうのではないでしょうか。

おそらく、すき家の女子高生はあんなことをしていても、とても虚しい気持ちだったのではないかと思います。なぜなら、そんなことは自分でよくわかっていて、一番傷つくのは本当は自分なのではないかと思うからです。
家族にはちゃんと愛されて育ったのたのだろうか。日々楽しみはあっただろうか。大事だと思える友達や恋人はいなかったのだろうか。
彼女はバイト先への不満もツイッターに書いていたそうで、早さや効率を優先し、信じられないほどにコストカットして、値段を削るためにバイトをギリギリの環境で働かせる、ブラックな世界も実際に見ているわけです。もちろんすき家で楽しく働いている方もたくさんいるとは思いますが、そういった社会の側面を見ながら、ストレスを抱えていたのではないかと想像します。
彼女のやったことを肯定するつもりはありませんが、まだ高校生の女の子がそのような行動に出ていたことには、いろいろな背景があるように考えられてならないのです。

女性が成長過程で直面することのひとつは、女性が性の対象として見られ、商品として流通していることです。

おそらく男性でも自身についてそれを認識されている方はいるのかもしれませんが、圧倒的に女性が多いと思うのでここでは女性を主語にします。それは重要な点なのですが、これまで男性社会の中で、AV業界やグラビア、風俗など、日常においては圧倒的に女性が性的に商品として扱われていることが背景にあります。(伝統的に男性は見た目や性的魅力などより、仕事での成果で評価や序列が見えやすいのに対し、女性は見た目などが加味されることについて、男性側からしたらずるいと言われるかもしれません。たしかに男性もそれはそれでつらいのですが、女性は子育てなどがあるため働き続けることがそもそも難しく、正当に仕事のみで評価されにくいという要因もあるのです)

女の子も成長すると、自分が商品としての価値を持つことを知ってしまいます。
また未成年だからこその価値を持つことも知ってしまう。「援助交際」が問題化したのはもうずいぶん昔ですし、最近は女子高生にマッサージなど客との接触をさせる風俗店まがいのサービスをさせる業者もあり、ますます足を踏み入れる危険性が増しています。

女性であることでインスタントに商品化されること、それを使うことは多くの場面で見受けられます。件の女子高生のような極端な例以外でも、美や若さでお金持ちの愛人になって貢がれる(こういう世界が実際にあるそうで驚きました)とか、枕営業とか(これも極端か)。じゃあモテを意識してスペックで相手を選ぶとか、人から気に入られるように振舞って都合のいい女になってしまう、とかでしょうか。

しかし、商品としての自分をアピールすることで、結局傷つくのは本人です。人が本来求めるのは愛情や友情、自分の能力や魅力、パフォーマンスなどを正当に認めてもらうことですから、結局商品への評価は上辺だけのものだからです。

しかし歴史的、慣習的に商品化されやすい女性は、評価される対象であり、数値化されるわかりやすい評価に振り回されたり、インスタントな商品に成り下がってしまったり、なおさらその評価という落とし穴にはまりやすいと思います。

一時期炎上したルミネのCMなんかが顕著ですが、あれも女性が見られる存在であることをあからさまに描きすぎたために、それが現実だとしても大バッシングを受けた。差別と思っていない作り手、差別だと反応する女性、事実だからまざまざと見せられて不快感を覚える人、など現在の状況をかなり反映した現象だったと思います(しかしいろんな意味であれはないと思います)。

最近TBS系のドラマ「マザーゲーム」を見ているのですが、見た目は完璧なセレブママたちは、子供のお受験に必死だったり、家では家族にいじめられていたり、夫が浮気していたりーーと、華やかな見た目を繕う女たちの生き方が描かれています。これは考えてみると、母親になると本人ではなく子供の優秀さや、夫の仕事、家庭の裕福さなど自分以外の評価軸でみられることが多くなってしまうからなのでしょう。

男女雇用機会均等法がはるか昔にもうある時代とはいえ、いまだ女性の評価軸は揺らいでいる。もちろん男性だって自信がないのは同じなのですが、女性はだれもがごまかされやすい“自己商品化”という甘い罠があるのです。

そこから脱したり、はまらないようにするにはどうしたらいいのか。自分の軸を持って、自信をつけるより他ないと思います。たとえば趣味など熱中できるものに取り組むとか、目標を持って努力するとか、愛されたりかまわれたりするのを求めるのではなく、自分が愛したり人のために働いたりするとか。簡単なことでないから老若男女みな、多かれ少なかれ不安なのです。しかし、そういった経験を積み重ねることにより、自分が価値ある存在だと認めて大切にできるようになり、自分が傷つくようなことは選ばないはずです。

女子高生は自分の人生を放棄するにはまだ若すぎる。これからの再起を応援したいと思います。






# by parttimeart | 2015-05-09 03:44 | コラム

つまりは単純に好きってことだ。ーNHKスペシャル「見えず 聞こえずとも~夫婦ふたりの里山暮らし~」 をみて

NHKスペシャル「見えず 聞こえずとも~夫婦ふたりの里山暮らし~」 をみた。
(以下、放送内容について知りたくない方はご注意)


京都の山里の風景を背景に、手をつないでニコニコと仲の良さそうな60代の老夫婦。妻は目が見えず耳も聞こえないので、夫とは、手をつないで手話を伝えることで会話をするのだ。
ただこれだけでも興味深いのだが、これだけでは全然終わらなかった。

始めにふたりが結婚15年といわれて50代で結婚? と不思議だったが、現在の柔和なふたりから想像のつかない波乱万丈な半生が紹介されたことで、納得とともに感嘆した。

夫は、無口で若い頃から農業を志し、人間らしく生きるために武者小路実篤が開いたコミュニティー「新しき村」に参加までしている筋金入りの活動家。その後ひとりで自給自足の暮らしを送り、若い頃にもNHKに取り上げられ、インタビューを受けていたほどだ。

一方妻は、2歳のとき耳が聞こえなくなり、20代で結婚したものの離婚し、その後だんだん目も見えなくなる(50代で完全に見えなくなる)。塞ぎ込み、自殺未遂もしたという。

夫が他人の助けをしたいと視覚障害者を手伝うボランティア活動を始めたことで出会い、ふたりは50代で結婚、なんと夫ははじめての恋愛であったという! 彼らはその生きる姿をみせることで人々に教えを与えることを使命として生を受けたのではないか、とまで思わせるドラマチックな半生である。

感銘を受けたのは、その関係が互いが互いを必要としあい、思いやるコミュニケーションの在り方を体現していることだ。

夫は妻と出会うまで、山の古い家で昔ながらの生活、完全に自分の理想の暮らしを追求していた。その生活に妻も呼び寄せたが、障害のある妻にはできないことも多く、けんかもしたそうだ。それで夫は理想である「山」を降り、妻も便利な山里に引っ越した。都会育ちの妻に合わせて、思想的には受け入れがたいにちがいない大型スーパーへの買い物にもついていく。農業にこだわる夫が、長年自分がもっとも大事にしているものを妥協したのだろうか? それは違うと思う。
それより大事なもののために、大事なものを大事にするために、自分が変わること。年を取ってからでも、これまで持っていたのが強い思いや習慣だったとしても、人は変われるし、成長できるんだなあとじんとした。

それは妻もそうで、障害で不便な中、田舎に飛び込んだ勇気や、稲刈りへの挑戦や植物を育てることへの愛着、それらも夫の世界を知りたいという思いだと思う。

山崎まさよしが「育ってきた環境が違うから好き嫌いはイナメナイ」といっているように、誰もが違う環境や価値観を持っている。中でもふたりは特に独自の世界を持っているほうだろう。でも、違うからこそ、お互いに興味を持って、知ろうと、近づこうと努力する。その互いを大事に思う関係、コミュニケーションをとろうとする関係に上下はない。

妻は障害で不便なこともあるが、“被介助者”的な佇まいではまったくなく、料理も掃除も、触って確かめながらテキパキとこなす。夫に買い物に連れて行ってもらっても、夫は商品知識がないから大変などと駄目出しも容赦ない。

障害があることで妻は触覚や独自の感覚の鋭さがあり、夫に新たな学びを与え続けるだろう。視覚や聴覚を失い、コミュニケーションにハードルがあるからこそ、しっかりと手を取って伝え合おうとする。ふたりには障害もまた、絆を強める欠かせないものであり、それも含めた相手の人生を肯定しているのだろう。

人が人に与えるのは目に見えるお金やモノだけではない。障害のある人をない人が一方的に助けてあげる、のではない。
真面目な夫にはないおちゃめさや明るさを持ち、恋愛を知らなかった夫にそれを教えたのも妻だろう。
不完全な部分を補い合い、対話を通じて相手から学ぶこと。歩み寄ることで自分が成長すること。互いにたくさんのことを交換し、新しい自分が育って、ふたりの関係をつくっていく。それが対話だ。それは相手を思うことがすべての源で、夫婦だけでなく親子やどんな大事な人にもいえることだと思う。

それぞれの人生を持った、別の個体という意味では親子ですら他人同士のわたしたちが、誰かと生きていくのは難儀なことだろうけど、ふたりはそれを妥協やあきらめでやり過ごすのではなく、ただただ一緒に過ごせることが嬉しく、一緒にいることで学ぶのが楽しくて仕方ないといった様子で微笑ましい。まさに青春している!

つまりは「単純に好き」なのだろう。それがきっと一番大事なことに違いない。

http://www.nhk.or.jp/special/sp/detail/2015/0503/





# by parttimeart | 2015-05-06 02:36 | コラム

外山恒一氏のニセ選挙運動〜なぜ毎回盛り上がらない選挙に仕方なく投票してまた民主主義に失望しなければならないのか。

12日は統一地方選です!

というのをどれぐらいの人が認識しているのでしょうか。
そういえば選挙カーが最近うるさいから、なんか選挙あるんでしょ、というくらいの方が多いかと思います。
なんの選挙があるかはお住まいの地域によって違いますが、本来バラバラな時期にある首長選や議員選挙を全国統一のタイミングで行うことにより、事務的な効率化を図り、有権者にも一大キャンペーンとしてPR効果を狙うというものです。

しかしその勇ましい響きとは裏腹に関心は高まらず、連日選挙カーのテンションの高い名前の連呼だけが虚しく街にこだましているようです。市議選など身近な選挙もあるので、知り合いや、友人の友人くらいの人が立候補している人も見かけますが、それでも実感としてほとんど話題になっていません。

投票は義務であり先人が苦労して得た貴重な権利だと思っているので、これまで選挙はおそらく一度も棄権したことはありませんでした。それでも何度も選挙結果には失望させられ、政治の難しさを痛感させられました。たとえば民主党の歴史的な政権交代では選挙は盛り上がりをみせたものの、その後の迷走で国民は政治に愛想を尽かし、311後、その限界を露呈させ変わるかと思われた既存の社会システムは逆に安定を求める人々により、かえって強固に維持されることとなっている現状。

たとえば特に最近の沖縄県と国のやりとりを見ていると、選挙とは、民主主義とはと考えさせられます。沖縄の人々が多数派で選んで信任した知事の考えを、国の意に沿わないために上から権力を使って封じるような、なんというか逆に見事なまでの離れ技的攻撃を繰り出しています。(注・ここでは沖縄の基地問題、特に辺野古移設についてどうするべきという内容には踏み込みません。ただ選挙で選んでも民意が覆される例として、たとえば知事が出した辺野古移設にともなう作業停止命令が国により効力停止されたことなどを想起しています。参考http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150330-00000017-jij-pol

しかしそもそも選挙への失望は私のスタンスが大多数の人が考えることと違うという単純な理由からであり、そうであっても民主主義のシステム上、たとえ反対の候補に投票しようが、みんなの多数決で決まったことには従わねばならず、選挙に参加することにより消極的に当選候補を信任したことに自動的になってしまうのでした。

しかしそうであっても希望は捨てず選挙は義務であるから、行かねば。。と思っていたところ、あの活動家の外山恒一氏が「反選挙運動」なるものをされているのを知りました。

トゥギャッターまとめ【外山恒一のニセ選挙運動】
https://twitter.com/toyamakoichi/status/585077391426334720

かつては自ら立候補して政府転覆などを訴えていた外山氏ですが(←サラッと書いているけどすごい)、最近は街宣車に乗り込み(黒塗り系ではない)、選挙カーに紛れて独自の主張をするというスタイルが定着しているようです。
国政選や都知事選では主に与党系候補者の後ろをついて「我々テロリストは原発推進派を応援します」などという誉め殺しキャンペーンをされていました。

これは摘発されないように法をかいくぐるようにかなり注意されていたようですが、行為としては極めてグレーであり、賛同されない方も多いとは思います。しかし私は、声を荒げ反対を呼びかける人々とは違って、テロリストを名乗って表向き応援しながら邪魔するというのは、ユーモアもあり、発想や意味を転換させるアート的な手法だなと感心したのでした。

そして今回は、ついに投票そのものを否定し始めた!
外山氏が、投票の否定の先に意図するアナーキズムやファシズムについては、私はまだ理解し賛同するに至っていないということは強調しておきたいのですが、少なくとも閉塞化した民主主義のあり方そのものを問い、前述のような選挙に対する無力感や疑念に焦点をあててくれたように感じます。

我々は幼い頃から決める時は多数決、学級では選ばれたリーダーによる統治という、民主主義教育を受け続け、民主主義=善とインプットされていますが、歴史上では多くの人が支持したことは必ずしも正しいとは限りません。(正しさと大多数の幸福は同じではない。そもそも大多数の人が選ぶこと=幸福とも限らない)

しかし教えられた通りやはり理想的に感じる民主主義への希望を諦めないとしても、より本来的な民主主義の実現のために、現在の選挙のあり方が適切なのかくらいは考えてもよいのではないでしょうか。

普段の生活でまったく顔を見ることもない立候補者の名前が選挙のときばかり連呼される選挙カーを苦々しく目にかける中で、外山氏の選挙カーだけは早く見たくてしょうがない。彼の活動は政治を用いたアートとかパフォーマンスなどともいわれますが、私にはパフォーマンスを用いた政治のように見えます。
単なる売名パフォーマンスや嫌がらせ的な行動ではなく、逆説的に選挙について目を向けさせてくれるだけで私にはとても有意義な活動だと思う、といったら持ち上げすぎでしょうか。







# by parttimeart | 2015-04-10 02:48 | エッセイ

「二分の一成人式」で保護者に子育ての話を聞くのは親のいない子がかわいそうという意見について。


これはなるほどと思った。
著者の方が、「やめろ」といっているわけではなく、再考を求めていることに同意しつつ、このような行事について考えてみたい。
たしかに私の頃にもそういう類のものは学校行事の中にあって、たしか修学旅行かなんかで親元を離れる時に生まれた時の話などが綴られた手紙を貰ったことがある。
幸せな家庭ばかりではないからやめろ、というのは至極まっとうな意見で、たしかにそういう子供への配慮がないと暴力的に傷つけることになってしまうと思う。
ただ、このようなことを学校行事で求められることで、普段家庭では表せない感謝や親の愛を知るという体験も非常に貴重であるとも実感する。

乱暴な例えだけど、これは徒競走で遅い子がいるからレースをやめましょう、というような考え方に近いのではないかと思う。傷つく子が出るなら原因自体を排除しようという意味において。

でも、いわゆる恵まれた家庭ではない子たちは、人生において「他人の幸せな家庭像」という壁にはいくらでもぶち当たるであろう。友達やドラマやマンガ、世間の普通の家庭はすべて幸せで当たり前なのだ。そのような現実からは、こんな学校行事をひとつ排したくらいで守れるものではない。

むしろ、このような場面において、記事で引用されているような、連れ子だから出生時のことを知らないという場合には「お母さんが生んだのではないけど、出会ってとても幸せだよ」というメッセージを伝えたり、両親がいない子にも、学校職員が「お父さんやお母さんがいなくても、先生があなたを大事に見守っているよ」と話してあげたりする機会になればいいと思う。
子どもたちには、あなたは望まれて生まれてきたのであって、とても大事な存在なんだよ、あなたがいてくれてうれしいよ、と伝えてくれる人が必要だ。そしてそれは、実親であるに越したことはないけれども、真摯な気持ちがあれば、必ずしも実の親でなくてもいいのではないかと思う。
それがむしろ、そのような現実の中で子どもたちが生きていく力になるのではないか。
10歳なら、そのように実子でないことを告白して親子で向き合う機会にしてもいいはずだ。
単純に行事を取りやめるのは簡単だが、やめることで失われるものもある。一人一人の子どもたちの境遇や気持ちに向き合うのは困難も伴う。一見子どもたちに配慮したかのようなごまかしではなく、本当に子どもたちが生き抜く力を得られるためにはどうサポートするべきかを学校には考えてほしい。






# by parttimeart | 2015-02-19 16:18 | コラム

アート専門家ではないふつうの人(会社員、福岡在住)が愛と情熱だけでアート、カルチャー情報を発信するメディアです。facebookではブログにはない情報をリアルタイムで更新中☆http://www.facebook.com/parttimrart
by parttimeart
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