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「アクト・オブ・キリング」すべての人類に目撃してほしい最高傑作です。

「映画を観てあまりの衝撃に死にたくなった。友達や家族には勧められない」

殺人者が当時の様子を自ら演じるというショッキングな内容に加え、
ネットで上記のような恐ろしい感想を読んで、この5月のさわやかな気分を損なわれるのではと、観るのをためらっていた映画「アクト・オブ・キリング」。

しかしこのインドネシアで起こった虐殺を恥ずかしながら知らなかったことで、目撃しなければと意を決して重い腰を上げ、映画館へ向かいました。

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121分後の感想は、「これはまちがいなく最高傑作だ」ということでした。

「虐殺の当事者がその様子を演じて映画にする」というと受け入れがたい設定に感じますが、
虐殺を主題に映画を撮り進めるうち、報復などを恐れる被害者への取材が不可能になったため、加害者側への取材を進める中で、当時の様子を喜々として語る彼らの姿に出会ったことから自然に生まれたようです。

この事件で最も不可解で、映画のテーマとなっているのは、彼らが「なぜ残忍な殺戮を犯しているのに罪悪感がないのか」ということです。

スクリーン越しの彼らは、東南アジア独特の陽気さで、フランクに監督に話しかけ、地元の人たちや家族と交流します。しかし白昼堂々と、当時の殺害の様子を自分の手柄のように話したり、華僑からみかじめ料を巻き上げたりしています。

それまでの取材で被害者からの声も多く聞いているでしょうに、「こんなにひどい事件が放置されている」という被害者的立場からの告発という描き方をあえてせず、映画を共同作成するという形で加害者側とある種協働的立場になり、彼らの心の中を探ろうとする監督の冷静さや洞察力が本当に素晴らしいです。

そこで浮き上がっていくものは、人の良心の問題、社会の問題、国の問題、戦後の東西対立の問題など、ミクロからマクロへとあらゆる普遍的なテーマです。

人がなぜ残虐なことができるのか。これは世界のどこでも過去から現在に至るまで起こっていることですが、ここでも共通していたことに、加害者の思考停止、集団での加担による個人の罪の意識の希薄化、組織末端までの指示系統が曖昧で責任の所在が不明確であることなどが挙げられます。

殺さなければ殺される、というような極限では何を思うのか想像もできませんが、彼らの場合それとは少し違う気がします。

人権意識や法律の知識といった学問があれば、違ったのか。いや、そうではなく、本当に必要なのは「知性」だと思いました。
時世や人の指示ではなく、自分で物事の善悪を判断する能力。他者への尊厳に思いを致す想像力。彼らはこれが完全にまひしていたのだと。

そして、実際手を下さなくとも、結局彼らを支援してしまっているサイレントマジョリティの存在があります。
冷めた目で彼らを見ながらも、彼らの番組を放送するメディア、映画撮影に協力する街の人々。
かつて虐殺を行った青年団の熱狂的な支持はにわかに信じられないものですが、実際は金銭で買収されたものであるなど、その内実は空虚なものです。
しかし、そういう個人の行動への無責任さが巨大組織や国の暴走に至ってしまう恐ろしさはかつての軍国主義の日本を例に引くまでもなく普遍的なものです。

たとえば日常生活の中で、会社の組織や上司に従って良心をおしこめたり、面倒だからと政治についてかかわることを放棄したり、他人や社会にどこかで違和感を持っても声を上げることをあきらめたり、というようなことと根本的にはつながっているのではないでしょうか。

加害者たちの姿を観続けていると、彼らもまた被害者なのだと憐れむ気持ちになります。彼らは自覚しようとしていませんが、社会に翻弄されてしまった一人で、飼っている鳥を孫と優しく世話するシーンのように、何もなければ余生を家族と穏やかに過ごせていたはずです。
彼らも社会的に弱い立場であり、自らの優位性を守ろうと華僑を差別していたという背景があります。
彼らの行為を正当化するわけではありませんが、彼らの罪を単に過去のものとして断罪するのではなく、背景を考えると、社会や国家、国際社会の在り方について現在に至る課題が見えてきます。

日本軍の責任もあり戦争被害を受けたインドネシアですが、独立後もスカルノは経済面で失敗、国内での衝突が懸念されていたところに「9・30事件」というクーデターはある種の必然性をはらんで勃発するわけですが、その後の国家路線は他民族や多様な価値観から目をそむけるように共産主義の排除と資本主義の追求に急進しています。

成熟しない政治や自治のかわりに、虐殺の主体となったやくざ的な人々が堂々と政治と関係し、暴力的な手法で市民を支配している。選挙という見せかけはあっても、市民も当然のように候補者からの見返りを求める。映画に映されるのは過去の事件ではなく、現在に続く社会の危機です。

そういった姿を「アジアはやっぱり後進国だ」と切り捨てるのではなく、このような「戦後」の資本主義、民主主義社会を目指させてきた日本を含む世界がフォローし、その在り方を考えなければいけないと思うのです。

戦後、資本主義社会の中では、敗戦国だろうと世界と同じ土俵で戦わされ、アジアは表面的には急成長を遂げ、旧先進国にも劣らない生活をすることができますが、その裏でこのような政治的インフラの不備には決定的に問題を抱えています。東南アジア諸国は豊かになり、気軽に遊びに行ける場所になっていますが、映画で社会状況のあまりの違いを見せつけられ、日本人として勝手に身近に感じていたことの無知さを恥じました。

世界的な経済の減速で経済至上主義の限界が見え、東西対立ではない新たな国際関係の中でほころびも見え始めて先行きの見通せない近年、これはインドネシアだけの問題だけではないはずです。世界がこの方向でいいのか、どう進んでいくのかを考えるために、過去(特に戦争、その後の国づくり)をどう清算し、認識していくのか、各国や世界で放置されている大事なテーマです。

この映画で驚嘆すべきなのは、「映画」という手法に正面から取り組んでいることです。

彼らの残忍さの根底には、「007」などの殺人シーンをまねて、あたかも彼らがヒーローのようにふるまっていたという「映画の責任」があります。映画は実際に人を殺すこともできる、ということも証明しているのです。しかし、この映画では、彼らに自然と罪を自覚させ、真実を明るみに出すということに「映画」が使われています。社会に対する映画の可能性への挑戦でもあります。

彼らが撮る映画(そして劇中の彼らの世界観を表現した情景)を口実に、実際のドキュメンタリーとしての映画が作られるその手法はアート的といってもいいほど見事です。(カメラワークや映像がとても美しいという意味でも)

制作陣にはこれまで10年以上民兵や暗殺部隊などを研究してきた監督をはじめ、人類学者なども名を連ね、詳細なリサーチと考察を積み重ねてこられたことがわかります。

「act」には、殺人の「行為」、映画で再現する「演技」の意味もあると思いますが、世界に対する制作者の「行動」でもあるように感じます。私たちが日々の生活の中でどう振る舞うか、その「act」も問われていると強く自戒しました。

一人でも多くの方に観ていただきたいです。
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by parttimeart | 2014-05-05 14:03 | Movie

アート専門家ではないふつうの人(会社員、福岡在住)が愛と情熱だけでアート、カルチャー情報を発信するメディアです。facebookではブログにはない情報をリアルタイムで更新中☆http://www.facebook.com/parttimrart
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